本文へスキップ

 Saburo-Nakayama AASSOCIATION

     プロフィールprofile

「努力」「情熱」「信念」これは三郎が自宅に自分で記していた言葉です
 性格は「穏健中正」「誠実」です

中山三郎は昭和2年福岡県で両親 中山権次郎、フミの男3人女2人の5人兄弟の3男として生まれる。その後福岡県立門司商業高等学校卒業し山口県の埴生(はぶ)小学校に勤務ののち上京、日大文学部に通い、苦労の末、 小学校(図工専科)教諭免許を取得、 東京都豊島区立千早小学校、豊島区立高田小学校、台東区立坂本小学校、秋草学園幼稚園、台東区立根岸小学校に定年まで勤務をしておりました。教諭時代も多くの書物を刊行:江戸時代に於ける浮世絵「社会的考察について」(日本大学)デザイン学習と描画の関連性(東京都教育委員会)創造教育について(豊島区教育委員会)風景画指導案(「美術教育」美術振興会発行)陶器による環境づくり(東京都教育委員会)美術雑感(「日本美術」日本美術社発行)図工教育に於ける新指導要領改定について(豊島区教育委員会)静物画のすすめ(ボザール社)画壇の注目(「人と作品」芸術公論社)等、その後も多く執筆した。大学在学中に東京芸術大学美術学部小磯教室にて指導を受けその後も絵画に没頭し昭和33年三郎31歳の時「女子大の見える風景」で第43回二科展に初入選を果たしその後毎回出品す。
昭和36年第46回二科展にて「タワーの見える風景」で銀賞を獲得、その頃、谷 桃子バレー団に所属する最愛の妻:美津子と出会う。昭和38年に結婚し、その年に長女 理惠を授かる。その後会友推挙、会員推挙、第60回三郎48歳の時「花のある風景」で会員努力賞受賞、その後、評議員、監事、を経て平成17年に理事に就任する。惜しくもこの年9月に妻美津子が他界、絵画に没頭する三郎を多くの子ども達に自宅でバレー教室を開きながらも支えた事は三郎本人も絵画に集中が出来、晩年、妻:美津子が先に他界した時は本当につらく悲しい日々が続きました。しかし三郎には外に出れば多くの支えて下さる方々にお力添えを頂いていることも伺っておりました。その後も二科会をはじめ多くの絵画グループの皆様に支えられ最後の最後まで絵を描き続けました。そして最後の作品が第94回秋の二科展の「絶筆」でした。

三郎が若き日の一コマ